北上市から石巻市への移動は、在来線の東北線で小牛田まで、小牛田から石巻線で石巻へ。乗ってきたディーゼルカーはご覧の通り石ノ森章太郎作品ラッピング。「マンガッタンライナー」として休日に運行されるそうです。石巻市は「石巻マンガランド基本構想」を策定し、「萬画」を活かした街づくりに取り組んでいる。市内には様々な石ノ森章太郎作品のキャラクターをいたることろで見ることができました。 |
石巻駅入口にあるサイボーグ003の足元には津波到達時の水深が示されています。ここが3・11当時、まぎれもなく津波に襲われた場所であることを示しています。
駅前にある市役所庁舎は、閉鎖した店舗を市が格安で買い取ったもの。震災後しばらくは周辺が冠水し、庁舎への出入りができない状況だったそうです。 |
石巻市の視察テーマは「東日本大震災における被害状況と現状について」
・議会事務局次長あいさつ
震災復興基本計画のもとで復興中。合併後17万人の人口が現在15万人。少子化、高齢化と震災の影響が大きい。市街地の空洞化が課題。歩いて暮らせるコンパクトな街づくり目指している。市街地で新たな賑わいを創出するかわまちプロジェクトが進行中。石ノ森漫画館が復興しリニューアルオープンした。
【東日本大震災における被害状況と現状】
危機対策課長より説明。震災当時は消防職員として活動していた。現在は消防局からの出向。石巻市は北上川河口のまち。1市6町が合併した。人口減少率が県内一
震災前は水産物売り上げが全国3位の水揚げだった。
(震災当時の状況)
・地震発生54分後に南部の門脇(かどのわき)地区に津波が到達。第3波が最も波高が高かった。震災前の津波ハザードマップをはるかに超える浸水区域。旧北上川を50キロ津波が逆流。チリ地震の経験で津波を軽く見て被害にあった高齢者が多い。家屋の被害は大半が津波被害。平成26年3月末現在の犠牲者は3,523人(人口の2.7%)、行方不明者438人(人口の0.3%)最大避難者数50,753人(人口の31.2%)最大避難所開設数259か所。
町中を歩くとまだ津波被害による更地があります。生活再建の遅れ、人口流出が大きな課題です。 |
震災の影響により0.7〜1.2メートル地盤沈下した市街地に設置されたポンプからの排水。復興事業 |
地域の安心・安全。
・仮設住宅はコミュニティーが壊れているところがある。影響で自主防災組織を作れないところも多い。
・震災復興計画の策定。トータルで10年計画。・津波・高潮から地域を守るまちづくりの推進。
・震災復興計画の策定。トータルで10年計画。・津波・高潮から地域を守るまちづくりの推進。
・復興公営住宅の整備 借り上げ型の公営住宅の入居はすでに始まっている。復旧・復興事業のピークは平成26年度だったが、入札不調で事業が遅れている。事業費も当初ぼ想定の約9倍。
・石巻市の市職員1,600人のうち49人が犠牲になった。現在も職員数が足らない。他の自治体からの応援と再任用で補完、応援職員数は300人。
震災後の新たな防災対策
浸水区域外の避難生活避難所と浸水区域内の緊急一時避難所に区分けした。震災当時は通信網が途絶したので、防災行政無線のデジタル化統合。衛生系通信手段。Jアラートの導入。防災無線の復旧とデジタル化。衛星携帯電話68カ所配備した。新しく、Wi-Fiスポット活用システムの「オレンジ」を整備した。
災害備蓄計画、防災基本条例
・備蓄食品の賞味期限を考慮し(5年間)4年サイクルで入れ替えする。
・津波避難タワーの整備。現在三基整備。津波避難ビルの指定。現在3カ所指定。三陸自動車道に避難階段を建設した。4カ所完了。
・あらたな防災対策として、災害に強いまちづくりを進めるための防災基本条例を制定した。自助、共助、公助。の理念を市民と共有することが目的。
・あらたな防災対策として、災害に強いまちづくりを進めるための防災基本条例を制定した。自助、共助、公助。の理念を市民と共有することが目的。
(質疑応答・意見交換)
・議会の震災当時の対応は、避難所設営の協力をいただいた。震災当時議員の安否確認に時間がかかった。震災復興にあたり、国や県に対する陳情に市長とともに精力的に動いた。現在、議員は平成25年10月に策定した災害対応指針に基づいて行動する。
・トイレ対策は大きな課題だった。備蓄していたトイレ以外にも災害支援で協力団体が避難所に直接持ち込まれたものが多く内訳は把握できていない。生活習慣病の薬の問題は、
日赤の医療チームと市の保健師が地域を巡回した。半島部の交通途絶地域も苦労して巡回した。
・災害復興公営住宅の現状について、当初は平成28年度までに4000戸整備する計画だったが、25年149戸。26年度実質1074戸の見通しで、計画に若干の遅れがある。公募型の民間住宅の借り上げも進めている。復興住宅希望者の登録について、自宅の再建か復興住宅入居かで悩む方が多い。希望者は4900人と多く、住宅が足らない。災害時の情報ツールとしてのコミュニティーFMの運営主体は当初は株式会社の運営。
・避難行動要支援者対策震災時の課題は、現在協議中。登録方法とレベルの検討中。大学のアドバイスもらうが難しい。震災時の避難困難者の救出は隣近所によるものが多かった。
個別支援計画作成中だが、苦労している。
・避難所運営の住民参加の手法は、小中高校単位で運営を検討中。市立中は地元自治会にお願いし、県立高校は県と基本協定結んだ。運用について協議中。自治会と学校の付き合いのあるなしでカギの受け渡し方法に違いがあり、なかなか難しい。
・行政機関のBCP震災後の変化について、とにかく情報がなかった。情報収集が極めて困難だった。道路も寸断。震災後数日間は、冠水のため庁舎から出ることができなかった。消防本部から県などに状況報告しても「壊滅」の意味が伝わらなかった。相手のイメージが湧かなかった。
・入札震災復興住宅建設遅れは、建築資材が4割値上がりしたことが原因。
・子どもの心のケア、PTSD対策は影響を考慮し、教委でカウンセラーやSSW導入して対応。住民に対しては保健師が対応。カラコロステーション(駅前の拠点)でのケア、病院のドクターが対応。専門医につないでいる。
・備蓄品は、各家庭の備えもあったが、津波被害のため、1階にあった物はすべて流され、ほとんどダメになった。物にもよるが置き場所を考える必要がある。地域の特性に合わせたしまい方が重要。水を多めに備える。大災害時に3日で物資が届くか疑問。1週間くらいの備蓄は必要と思う。震災後は避難所の備蓄、簡易スロープ、ポータブルトイレを備蓄、整備するようになった。津波で2階に避難する時のために担架を準備するようになった。障がい者が必要な薬の配置、事前に協定を結んで配達してもらう工夫も必要だった。
・自主防災会の活動については、地震が多いところなので、沿岸部の住民は津波被害を先祖代々伝えているような熱心な地域はあるが、被害が少ない地域はそうではなく、地域により違いがある。防災会組織率は、震災後でも80%。合併前の市町によっては100%のところもあったが、市街地では組織率が低い。仮設に移転して、コミュニティーがバラバラになってしまった。
・子どもの防災教育については、大川小学校の教訓から学校防災のワーキンググループ作り、学校防災マニュアル策定中。学年に合わせた防災教育の内容を検討中。釜石市の防災教育をお手本にしている。
・復興住宅のコミュニティーの現状、崩壊を防ぐ手だては、住宅申し込みの際に、複数世帯で申し込み可能にして、近所ごとに入居するよう、事前登録で入居者同士の顔合わせをしている。
・原発の影響、風評被害、漁業への影響。避難計画。女川原発の対応では、原発避難計画を今年中に作れと言われているが、15万人を移送する先もない。病院、介護施設の移動など、課題が多すぎる。PAZを優先して避難させる計画だが、牡鹿半島は道路が3本しかない。風向き、天候を考慮して優先地域の避難を考えるか、問題多い。風評被害は漁業が影響大きい。線量調査して出荷し不安の解消に苦労している。販路が一時期途絶えたために販路が復活しない、取引先が再開できない問題があると聞いている。女川原発周辺施設に福島からの避難者400人避難している。
・災対本部の自動設置は指揮系統の明確化のため廃止した。市長、副市長の指揮権の整理が目的。
・活動本部の状況は、初期段階は情報がなく、夜になって現地入りした自衛隊から様子を聞いた。自分たちのまちの情報がなかった。自衛隊、県、電話回線は無線の1系統のみで、情報は少なく錯綜、混乱していた。地盤沈下の浸水の影響で動けなかった。食料調達が課題だった。情報がない中で現場で話し合って方針を決めていった。情報の真偽が不明。住民に顔を出すことを第1とした。
・ガレキ処理当初は分別できなかったが、段階をへて分別が進んだ。置き場は市有地。
ライフラインの復旧については、インフラ復旧に関する協定を周辺自治体と結んでいる。
ライフラインの復旧については、インフラ復旧に関する協定を周辺自治体と結んでいる。
歴史ある建造物として、市が保存を検討している店舗。建物の裏側にはやはり津波の痕跡があります。 |
石ノ森萬画館。川の中州にあるニューヨークのマンハッタンを模して「マンガッタン」なんだそうです。石巻マンガランド基本構想のシンボルとなる施設です。 |
市役所で行われた説明後、市のご好意により市内の被災状況を視察することができました。やはり海に近い南浜地区の被害が甚大です。写真奥が津波で流出したガレキ火災によって全焼した門脇小学校です。広大な更地は元はすべて住宅地だったところ。残った住宅も室内は津波による被害を受けています。この地域は今後、震災復興公園として整備される計画です。
被災地の復興シンボルとして有名な看板。敷地は元はコンビニエンスストアだったそう。隣にある柱は津波高さを表しています。 |
震災当日、多くの市民が避難した日和(ひより)山から萬画館がある旧北上川の中瀬地区を臨む。 |
日向山のふもとには寺院が多くあります。津波の被害は墓石にも及び、中には整理されないままの墓所も多くありました。 |
石巻駅には市内有数の事業所である日本製紙の石巻工場から出荷されるロール紙を積んだコンテナ貨物が。この工場も大きな津波被害を受け復旧しました。 |
【視察の感想】
1.通信手段の確保
今回の震災では、北上市、石巻市ともに電話など通信回線の途絶による庁舎間の連絡、市民に対する情報提供ができなかったことを反省点のひとつとしています。また各関係機関や地域の自主防災会、自治会などの組織間の連絡手段が十分にできなかったことは、小金井市とは事情が異なるとはいえ、参考にすべきです。情報が途絶した場合でもそれぞれの組織の自主的判断で動ける体制を目指すべきです。2.行政の各部署の自主的判断が必要
開設した災害対策本部も、各専門部が自主的な判断ができずに企画部総務班政策企画課に指示伺いをしたため業務が煩雑化して停滞したことを、小金井市でも教訓にすべきで、そのためには北上市でも行った災害対策本部の参集訓練を総合防災訓練時に行うなど、各部・課の役割分担と使命を明確にする必要があると感じます。北上市の場合は沿岸部に比べ、被害が軽徴だったために震災直後から沿岸部からの避難者を受け入れていたことも特徴的で、市内の旅館、ホテルを避難者のために借り上げて支援した経験にも学ぶべき点は多いと感じます。3.市民の責務を明確に
大災害発生時には、市役所など行政機関も被災し、機能停止することを前提とし、自助、共助、公助の理念を防災、減災の柱として掲げ、市民自身の責務を明らかにした防災基本条例を制定した石巻市の取り組みは、小金井市でも参考にすべきです。4.避難所運営の検討
避難所運営についても多くの気づきを与えた視察になりました。地域コミュニティーの形は地域によりの違いますが、小金井市でも地域の実情に合わせた避難所運営の検討が必要です。これまで小金井市では町会、自治会単位で防災組織を構成していますが、避難所運営を考えると、学校に隣接している町会、自治体が連合体となり学校を中心とした避難所運営を学校とともに協議すべきです。5.総論
2市の視察を終えて感じることは、どちらの自治体も地域防災計画を策定し、事前の準備は怠りなく行っていました。しかし、想定をはるかにこえる規模の震災により想定外の対応の連続となったわけです。激甚災害であったため、その地の情報が入らずにいたことも混乱の一因だったことで、その情報は自衛隊や消防隊によりもたらされたという事実を受け止めなければなりません。被災地となった地域の市民は、水道、電気、ガスといったライフラインの途絶への備えだけでなく、情報過疎に対しても備えを持つべきであることがわかります。備蓄食料は3日分ではなく、最低1週間は必要。避難所に避難せずに、自宅で復旧を待てる備えが必要なことを考える視察となりました。